『グ~(お腹のなる音)』
「あー、お腹へったなー」
「あー、腹へったなーっていうエネルギーももったいないなー」
「って、これをいうエネルギーも、さらにもったいないなー」
そんなつぶやきを1歩歩くことに、108回くらいw、口にしつつ
13年程前、タワシは、お腹を優しくそっとさすりながら、北インドのダラムサラという町を歩いてました。
そこ、ダラムサラとは、チベットを追われたダライ=ラマさんのホームとなっており、たくさんのチベット仏教徒が過ごしている町。
そして、すごくステキでココチ良い場所。大好きのカタマリ。
すさまじく気もいい場所のため、オススメです。
そこで、のんびり人生のエナジーを蓄えつつ、6カ月目位に突入していたタワシは、3年の旅の最終章を迎えておりました。
当時、オーストラリア(ワーホリ)2年→東南アジア(約半年)→インド(5カ月目あたり)の旅。
最終コーナーをまわったところ、まもなく旅が終えよう(=お金がなくなるw)としていたのです。
日本を出る前、ビパッサナー瞑想(注1)という瞑想合宿の話を聞ける機会があり、いつか、いつか行きたいと強く思い続けてましたが
どうもこういうものは、インド旅だったり、様々な旅の流れ、人生の流れと同様に、時・場所、タイミングの重なりがあるようで
なかなか上手くパズルのピースが当てはまらず、最後にきて、やっと全てがつながってくれて、すっと予約でき、コースのスタートを待っている日の中でした。
そんなある朝、タワシは、自分の泊まっている宿から、いつも通ってたインドのローカルレストランに向かって上り坂を歩いておりました。
『グ~ゥゥ(お腹のなる音)』
「またか~」
この『グ~ゥ』というお腹のなる音を聞くたびに
なーんか、ガックリ、テンションただ下がり。
音を聞くと、さらにお腹が減るように感じるからです。
空腹に響くのです。
「はぁ~あ」とタメ息をつきつつ
「は~、あー、はて?いったい何日目になったろう??」
と、チカラの入らないアタマで、思考をめぐらしながら
(お腹が減ると思考のスピードは遅くなるようで、無駄なことは考えられにくくなり、どうやったら生きるかに思考や発想が絞り込まれやすくなる、おおげさ?w)
カウントしながら何度も自問
「どうしてこんなこと、思いついたのかな??」
「どーちたのかーなー? じぶん~」
「うらめしや~」
変なアイデアを思いついた自分を恨めしく思いながら、
怪談話のお菊さんが皿をカウントするレベルで、
日にちをカウントしていきました。
「1・2・3・4、、、」
「、、、、」
「たった4日!(じゃん)w」
そう、タワシが、思いついた変なアイデアと言うモノは
「お肉食べずに何日位過ごせるか?」というもの。
理由は、好奇心5割・節約(やむをえず)5割。
当時「旅を少しでも長くしていたい、もうすこし、もうすこし!」と思ってたタワシは、
節約のため、ときどき最終的に地元民しかこないインドのローカルレストラン(菜食)にも通うようになっておりました。
そして、インド滞在が長くなってきてたボクが関わることが増えてきてた
庶民派インド人・ローカルインド人の方々は、そもそも、基本的に、お肉の食べ方が違っていることに気づいたのです。
「今日はパーティーだから、鳥をしめて持ってきたよ!」
「ひゃっほー!」レベルで
特別なパーティーとかある時に味わう感じで、
日頃は菜食というスタイルが、割と多かったのです。
ここダラムサラも、観光地で、観光客や西洋人が多く集う観光客向けレストランは、美味しく、お肉料理も多く(=油も多く、味も濃い、リッチ・豊か)だったのですが、値段もちょっとリッチ(とは言え、フルコースで200ルピーとか、400円とかなんですがw)
それに対し、インドのローカルレストラン。地元民しか来ないようなレストラン(注1)は、ターリー(定食)1食20ルピー、味は、素朴でシンプル。菜食。
インドでは、ハレの料理・ケの料理ということで、料理の役割が割と明確なようでした。
外食は、パーティ、みんなで日頃は食べないようなリッチなものを食べる
日頃の食事は、体調管理。アーユルヴェーダという伝統療法(おばあちゃんの知恵みたいな。)では、
キッチンファーマシー(台所薬局)という考え方が今も大切にされている、とそうです。
タワシも、最初は美味しいから、とにかく毎日、観光客向けのレストランが中心で、いろんなメニューを食べておりました。しかして、外食ばっかりだと、おいしいけど、なぜか飽きてしまう、毎日食べ続けるものとしては食べ続けにくい というの、あるじゃないですか?
で、味的にも価格的にも、タワシは、ときどき、インドのローカルレストランも挟むようになっていたのです。
ちなみに、そこで当時は、まだ、だいたい1日3食、食べてて、そんなある日、ここ2日くらい、インドのローカルレストランだけになっていたタワシは、ふと気づきました。
「あれ?ここ2日、お肉食べてないね」
そこで思ったんです、そういえば、タワシは33年、生きてきたけど「お肉を全然食べてない日」って、なかなか無かった、んじゃないかな?って
そう、それまでタワシは「人生上、お肉を食べない日が、そんなになかった」ことに気づいたんです。
そもそも、それまで人生33年、タワシは、お肉、おさかな、お酒、たばこ、夜更かし、大好きっこ(×中年)だったので、お肉を食べない人生なんて、まーったく考えたこと、ありませんでした。
オーストラリア時代にバックパッカーズ(宿)で同室になって一緒に農作業をした台湾の仏教徒のケルビンくん(台湾人はイングリッシュネームを持ってます)は、ベジタリアンでした。「お肉食べれないなんて、なんて気の毒な人生なんだ」と思ってました(その男子は、たしかハッピーと言ってたと思うのですが。ちなみに卓球は、やたら強かったです。とりあえず、卓球の強さとお肉は関係ないんだなと思った記憶あり)
そんなこともあってタワシは「お肉食べなかったら、どんなになるんだろうな? どれだけいけるか、できるだけ、やってみよう」そう思い、インドのローカルレストランにだけ通うようになったんです。
でも、あれって不思議ですね、「やろう!」ってがんばろうとすると、緊張が入るのか、変にチカラ入るのか、それだけで、腹が減るんですよね、なんか緊張するんです。それで、それまでは「フンフーン」と過ごしてたのに、なんかすごい、ちょっと怖くなちゃったりするんですね、なんででしょ?w
と、まあ、そんな風にしつつ、どーにかこーにか、日々は過ごせました。
最初は「あー、まあ、死にはしないんだなー(おおげさ病w)」と思いつつw
そして、さらに、3~4日立った日のこと。
かれこれ、トータル1週間位たった日、いつものように、優しくお腹をさすりながら、上り坂を歩いていた時のことです。
ホント、文字に書くと、ちゃちぃ、かるくなっちゃうんですが、、
ある瞬間、、ある瞬間ですね
胃が、突如「グワッ!」(もう天地がひっくり返るというか、100メートルサイズのアドバルーンが一気に雲の上まで上がるというか)
いーーーーーーーーっきに、ですね
胃が、ブワッ!!! と軽くなったんです!
すっごく軽くなって、なんかーーー、その瞬間は、すぐフィットしたワケじゃなかったんですが、なんか、すっごく快適だったんです。
で、その時、同時に、イナヅマ、アタマの中に、イナズマが落ちたように
イナヅマのように、アタマにズドドドドーーーン!!!
って、何か(あるアイデア、思いつき)が降ってきたんです。
胃は上に上がり、アタマにはズドーンと落ちてきて
あまりの衝撃で、一瞬「ほげーー!」となった瞬間
「ババーン!」とアタマの中に降りてきた考えが閃いたのですが
それは、こういうことでした。
「自分は、この1週間位、ずっと、お腹が減っていると思っていたけど、
実は、逆。で
これまでの33年間、ずーっと胃もたれしてたんじゃないか」って
それは、その瞬間は、なんとなく、おぼろげ、でも、奥底では、ちょっと見たくないような、だけど、なーんか確信。
たとえて言うと、そんな感覚。
そして、その瞬間、同時に、思った、というか、分かったかもしれない一部のことがありました。
それは「すべては逆」ということ。
それは、体験的知識で、アタマで分かったりするものでなく、カラダの底が、コタエとしてうなづくような、カラダの奥底で分かるような、そんな感覚。体験的な分かる感覚というか、そんな感覚。
んー、分かりにくいですよね
たとえば、こういうことです。
親との関係で色々なことを考えていたタワシは、「親が先、子があと」「親があって、子がある」と思ってたのですが、親とは、子どもができる前は、ただの男性・女性であるわけです、
だから子ができて、初めて、親という存在になる、そう考えると、親が先、子があとというよりは、子があって親が生まれる。親が子を育てるというよりは、子が親を育てる、親が子を育ててるという考えも、実は逆かもしれない、などなど
世の中のあらゆるところで「実は、すべて逆」そういう世界が、そういう発想が、真に近い、そんな考え方もあるのではないか??
たとえば、そんなことなんですが、そういう思考が、感覚的に一瞬で、ズドーンと体験的に、入ってきたんですね
で、その衝撃が、あまりにも大きかった。プラス、体の快適さが凄かった、
その2つが、大きくて大きくて、
で、今もベジタリアンを続けている、というワケで、
それが、タワシのベジタリアンライフのスタートでした。
ということで
今日のところは、以上です。
長文失礼しました
お読み頂き、ありがとうございます。
それでわ、わでれそ~◎